First one stories
2024年5月17日金曜日
2022年5月31日火曜日
セイコーエプソンの概略
セイコーエプソンの概略
・沿革の概略
1942年
服部時計店(セイコーホールディングス)の元従業員で、長野県諏訪市で時計の小売りと修理を営んでいた山崎久雄が、服部家の第二精工舎(セイコーインスツル)から出資を受け、協力会社として有限会社大和工業を設立した。
1959年
大和工業が第二精工舎から諏訪工場の営業譲受を受け、株式会社諏訪精工舎と商号を変更した。
1961年
子会社として信州精器株式会社(エプソン株式会社)設立。
1985年
株式会社諏訪精工舎とエプソン株式会社が合併、セイコーエプソン株式会社と商号を変更した。
・セイコーホールディングスとの関係
子会社と思われているが独立した別会社であり、直接の資本関係は薄い。ただし、創業者の山崎久夫が服部時計店の元従業員であったこや、服部家の第二精工舎から出資を受けて諏訪工場の協力会社として大和工業の設立、諏訪工場の営業譲受による大和工業から諏訪精工舎へと、服部時計店第二精工舎とは古くから強い関係がある。現在でも大株主はセイコーホールディングスの服部家だが、売上に占める時計関連は数パーセントであり、プリンターを始めとする電子デバイスの主要事業が大半を占めている。
大株主がセイコーホールディングスであること、冠にセイコーが付いていることで、セイコーインスツル株式会社と併せて「セイコーグループ中核3社」が形成されている。
2022年5月30日月曜日
インドネシアのムルトポ将軍の言葉(韓国代表、何も言えず)
インドネシアのムルトポ将軍の言葉
1973年、昭和48年4月、マニラで開かれたASEAN諸国を中心とした安全保障の国際会議での発言。。。
・韓国代表に反論したムルトポ将軍
・日本を悪く言うアジアの反日国よ、アジアで戦ったのは日本だけではないか
・A.S.E.A.N.会議でインドネシアが日本を擁護した話
・国際会議で日本を非難した大韓民国の代表に対し、インドネシア将軍が放った一言
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「朝鮮人は自ら戦わなかったくせに、責任だけを日本に押しつけるとは何事か。もしアジアに日本という国がなかったらと仮定してみよ。1899年の義和団事件以来、ロシアは満州に大軍を駐留させ、朝鮮を狙っていた。朝鮮が戦わないから、日本が戦ったのだ。これが日露戦争だ。
朝鮮は、日本が負けると予想し、裏でロシアと繋がっていたではないか。もし日本が戦わなかったら、間違いなく朝鮮はロシア領になっていた。朝鮮だけではなく、中国も北半分はロシアが支配し、揚子江以南はイギリスとフランスが支配しただろう。遅れて登場したアメリカは、どうやって中国大陸に食い込もうかと企んでいた。
そもそもアジア混迷の遠因は中国にある。中国はアヘン戦争でイギリスの不当な要求に屈して簡単に降参してしまった。あの時、中国はなぜ徹底して戦わなかったのか。イギリスやフランスを大陸に引き込んで、蒋介石のように戦えば勝てたかもしれないのに。”中華”と誇る中国がふがいなく負けたから、日本が大東亜戦争を戦わざるを得なくなったのではないか。その責任は中国にある。そもそもアジアで戦ったのは、日本だけだ。もし日本という国がなかったら、アジアは半永久的に欧米勢力の植民地として支配されていたはずである。
戦後、アジア諸国は日本から、経済、技術、資金でいかに多くの支援を受けてきたのか」
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「韓国人はどうやらASEAN諸国を見下しているようだ。我々は確かになかなか発展できないでいる。しかしもし、日本がそばにあったら、現在のようなASEANではなかったはずだ・・・」日本はアジアの光である。大東亜戦争は欧米人にアジア人の勇敢さを示したもので、チンギス・ハーンとともにアジア人の誇りである。「ここで、インドネシアの日本民族の価値についての見方を申し上げる。今、忽然(こつぜん)として日本民族がこの地球上から消えたら、アジアとアフリカは非常に困る。
その時に韓国が一番困ると思う。
韓国は工業大国日本と競争したから、立派な工業国になれたのである。
もし、日本がシンガポールの地点にあったら、インドネシア人は少なくとも百万人が日本に住み、日本人と同等の教育を受けるから、その人間関係から日本の技術、市場、金融、スタッフ等活用することができる。だから企業の成功は容易である。つまり、日本の近いところに位置していることは、幸運なのだ。
経済的支援を連続的に受けていると言ってもよいくらいだ。
インドネシアが日本に近ければ、今のような貧弱なインドネシアではない。つまり、我々インドネシア人は『日本はなにもしてくれなくてもよい』と考えている。日本は欧米と肩を並べて進歩しているだけで、十分アジア・アフリカにつくしていると考えている。
だから、我々アジア人は外交面に弱い日本を支援したいと思っている。日本から援助をもらうだけで応援しないのでは運命共同体とは言えないし、対等のパートナーとも言えないのではないか。」
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2022年4月9日土曜日
津田梅子(つだうめこ)
津田梅子(つだうめこ)
1864年12月31日(元治元年12月3日)- 1929年(昭和4年8月16日・64歳没)
女子英學塾(のちの津田塾大学)創立者であり、日本における女子教育の先駆者と評価される。
梅子は、父、津田仙(幕臣・東京府士族・下総佐倉藩出身)、初子夫妻の次女として、江戸の牛込南御徒町(東京都新宿区南町)に生まれた。
梅子の父、津田仙について
津田仙は幕臣であったため、江戸幕府崩壊とともに職を失ったが、明治2年(1869年)に築地ホテル館でGM、総支配人として勤めはじめ、津田家は一家で向島へ移った。仙は西洋野菜の栽培なども手がけ、幼少時の梅子は手習いや踊などを学び、父の農園の手伝いもしていた。
幕末の1868年、築地の外国人居留地に開業した「築地ホテル館」
外国人のために建てられた日本最初の本格的ホテルといわれています。勝どき橋のたもと、現在の築地市場の立体駐車場あたりであったが、残念ながら銀座大火で焼失し、ホテルとしての命はわずか4年でした。
その後は「農業雑誌」の発行、農学校の経営にたずさわり、青山学院大学の創立にも携わった。
幼い6才の少女をあの時代によくアメリカに留学させたものだ、とよく言われますが、津田仙は佐倉藩の藩士として生まれ藩命でオランダ語と英語を学び、江戸時代には外国奉行の通訳となり、幕府の通訳としてアメリカにも渡航した経験もあり世界情勢にも通じていた。
つづく
2022年4月4日月曜日
荻野吟子(おぎのぎんこ)、日本初の国家資格を取得した女性医師
荻野吟子は、近代日本における最初の女性の医師である。女性運動家としても知られる。 なお、日本人女性初の国家資格を持った医師であるが、医術開業試験制度がなかった時代から、榎本住ほか何人かの女性医師が開業していた。西洋医学を学んだ女性医師としてはシーボルトの娘・楠本イネがいる。
荻野吟子は江戸時代末期の嘉永4年(1851年)、現熊谷市俵瀬に生まれました。18歳で結婚しましたが、不慮の病に罹り2年ほどで離婚しました。この時、婦人科の治療を受けたことから、女性医師の必要性を痛感し、医師となることを決意しました。
しかし、当時、女性には医術開業試験の受験が認められておらず、制度改正に奔走しました。その際、「令義解(りょうのぎげ)」という古文書に女医の記述があることを訴えたと言われています。この「令義解」を校訂し、後世に引き継いだのが埼玉の偉人「塙保己一(はなわほきいち)」でした。
こうして吟子は様々な困難を克服し、明治18年(1885年)、医術開業試験に合格、日本で最初の公認女性医師となりました。
開業後は、診療活動に加え、婦人解放運動等の社会的活動も担い、女性の地位向上や衛生知識の普及にも大きく貢献しました。大正2年(1913年)、62歳で永眠し、栄光と波乱に満ちた生涯を閉じました。
映画「一粒の麦 荻野吟子の生涯」(出演:若村麻由美 )

